2014年5月8日木曜日

母に想いを贈る~母の日のプレゼントセレクト

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もうすぐ母の日ですね。(5月11日)

母の日にプレゼントをと、考えている人も多いと思いますが、プレゼントの内容よりも、重視したい

のが、気持ちがこもっているか?なのです。(笑)


しばらく会っていない故郷の母ならば、プレゼントより、電話で話をすることや、直接会いに行く事

の方が重要で、ちゃんと元気で働いている(学校に行っている)と安心させて上げる方が、よほど

プレゼントより、喜ばれます。

また、会いに行き、一緒に食事をするだけでも、ちゃんと気持ちは伝わるものです。



また、私のように、母が入院してしまっていたり、施設に入っている人も、会いに行ければ、それが

一番良いことでしょう。(誰だか分からない状態でも、家族の血縁は、直感で感じてくれるものです)


なかなか遠くて、会いにいけない人は、プレゼントを高額なものではなくても、小さなメッセージを

添えるカードをつけたり、録音テープをつけたり、することもひとつのポイントでしょう。



先日、私ごとですが、東京へ行った時のことをお話すると・・・。

今の状態の母は、、口から食事が出来ない状態ですし、喋れない状態で、認知症も進み、極度の

うつ症状が出ている母でさえ、私が行った時には、眼が輝いて反応をみせてくれました。


それから、滞在期間中は、毎日、母が好きでやっていた踊りの写真を毎日持っていき、会話(

と言っても一方的に話しかけていた。)写真を見せては、この人誰?と質問をすると、自分のこと

と分かるようで、「私・・・。」と声にならないか細い声を発していました。(眼が輝く)


時には、母が踊りで好きな歌(白虎隊)をihone に録音をして、イヤホン持参で、聞かせたり、反応

してくれることが嬉しくて、毎日志向をこらせては、いろいろやっていました。(苦笑)


うとうと寝てばかりの母に、ずっと付き添い、目が覚めた時に、安心できるように、「ここに居るよ!」

と言うと、安心するのか、また寝てしまいましたが・・・(笑)

出来るだけ、いる間は、話しかけたり、一緒に写真を見たり、そんな日々でした。(3泊4日)


出来ることは、母の日以外でも出来るのですが、せっかくの母の日ですから、今出来ることは、

何かを考えて、今までの感謝の気持ちを贈る方が良いでしょう。


私は、今は行ける状況では無いので、毎日、「私が会いに行くまで元気で毎日を過ごしていてね」

と念を送っています。(笑)(願うことは、叶うのですから!(笑))


もし、同じような母を、お持ちの方は、ぜひ、念を送ってみてください。

「母の毎日が、元気で暮らせるように!」と、それだけでも、子の気持ちが伝わるはずですから!

(これは、新月・満月の願い事とのいい方とは、違いますが、この時の念は、この言い方でOK)


その後には、必ず会いに行ってあげてくださいね。(笑)



プレゼントも良いけれど、気持ちのこもっていないプレゼントでは、意味がありません。

ただ、送っておけばいいや・・・とか、母の日だから、しょうがない・・・そんな気持ちで、送っても

何の意味もありません。


今までのことを、思い出しながら、たとえ、子供としての扱いを、じゃけんにさせて来た方でも、

生まれてきたのは、自分の意思で決めてきたことなのですから・・・親を恨むのはお門違いです。



母の日だからこそ、今までの、母の愛情のお返しが出来る日でもあります。


心を込めて・・・

 「いつも、ありがとう!」の一言でも、それはそれで、ちゃんとしたプレゼントになるでしょう!(笑)




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2014年5月6日火曜日

京都・永観堂 禅林寺~みかえり阿弥陀如来像とのご縁

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今日は、京都の永観堂 禅林寺にある、みかえり阿弥陀如来とのご縁を頂いたお話。(笑)


数日前に、あまりテレビを見ない私ですが、ふっと思いつき、テレビのスイッチを入れたところ、

何かお寺のような風景が目に入ってきました。


何気なく見ていて、永観堂のお話か、予告か分かりませんが、その中で【みかえり阿弥陀如来像】

まさしく阿弥陀如来像がうしろを振り返っているお姿を目にして、「こんな格好をした阿弥陀如来像

もあるんだ・・・。」と見ていました。それを見ていたのは、ほんの2~3分のことでした。


しかし、うちのアッシー君(主人)(笑)は、今だに京都のお寺めぐりをしていますが、昨日も、雨が

降っているにもかかわらず、どこへ行くとも言わずに出かけて行きましたが・・・。(人ごみが嫌いで

昨日も帰るまで、どこに行っていたのか知りませんが、ひとり散策を楽しんでいるような人です。)


帰って来るなり、あまりいつもお土産など買わないひとが、お土産と言って見せたのが、まさしく

その、永楽堂のみかえり阿弥陀如来像の写真の裏に鏡がついているもので、【みかえり かがみ】

というものでした。


その説明書に目をやると・・・


重要文化財 みかえり 阿弥陀如来とあり、

当山の中興永観律師が永保2年2月15日念仏行道中、

壇上より降り給える阿弥陀仏が「永観 遅し」と・・・云々とありました。



調べてみると、この永観というお方は、50歳の時のこと、2月15日の払暁(あけがた)に、

底冷えのするお堂で、阿弥陀像の周りで念仏して行道していた時のこと、その阿弥陀像が壇上

から降りて、永観の前を行道し始め、永観が驚いて立ち尽くすと、阿弥陀さまは、左肩ごしに

振り返って「永観 遅し」と、お言葉をかけたとありました。


そのお姿を見た永観は、何と慈悲深いお姿と心にとめ、後世にそのお姿を伝えたいと、今のお姿

の【みかえり 阿弥陀如来像】となったとありました。


これを見て、私は、その【時】にびっくりしたのです。

まさしく、2月15日は、私の誕生日の日で、偶然にも一致していて驚きでした。

それを買って帰ったアッシー君(主人)は、無意識で知らずに買って帰ったとのこと。(笑)



そして、永観律師の作ったものに、現代風に解釈されたものに

自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。

自分自身の位置をかえりみる姿勢。

愛や情けをかける姿勢。

思いやり深く周囲をみつめる姿勢。

衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき。


真正面からおびただしい人々の心を濃く受けても、なお正面にまわれない人びとのことを

案じて、横をみかえられずにはいられない阿弥陀仏のみ心。


そんな風に記されていたのでした。



これを見て、今の私との御縁を何となく感じたのは、2月15日に入滅されたお釈迦様とのことで

お釈迦様は、阿弥陀如来とは、先生と弟子の関係であられたとのことで、深い縁を感じました。

このみかえり阿弥陀如来が今、私のところに来た意味を考えているところではありますが・・・(笑)


もしかしたら・・・

「榊 何を、もたもたやっているのだ!」・・・とお叱りの声かもしれない?(笑)などとも考えられる?

そんなことを考えながら・・・この御縁の意味するところを、深く考えたい、私なのでした。(笑)


そして、こういったご縁は、ある日突然にやって来るもので、しかし、日頃の「良き、お導きを」と

願っている心が、縁を頂けているのかも知れません。(笑)


                 ~ 願う心は、必ず届く、そんな実感でもありました。




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2014年5月4日日曜日

最愛の人(亡き人)を胸に~口ずさむ歌でありたい

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先日、曲を作成して載せたのですが、その内容についてもう少し詳しくお話しておこうと思います。


私の周りやご相談の中に多い内容に、亡くなった主人の事が忘れられなくて、さみしい・・という人

が多く、また死が怖い(自分が死ぬときのこをと思うと)という方がいらっしゃいます。


誰でも、今生きている状態で、元気だったり、(病気や怪我などしていない状態)の時には、考えも

しないことなのですが、年とともに老いてくると、だんだん死という現実が近づくと共に、最愛の人を

亡くした悲しみと死への恐怖をいっぺんに味わってしまう人もいらっしゃいます。



そんな時私は、死後の世界について、お話を少しして、その恐怖を無くして、前向きに生きるために

どうしたら良いかを一緒に考えることにしています。


今ある肉体は、借り物の器で、その器の中には、心(魂)が存在しています。人間の本質は、

どうなっているのかは、肉体、精神(頭・思考)、心(魂)から出来ていて、人が死ぬということは、

肉体が滅び、心臓が停止し、脳が働かなくなってしまうことを言い、心(魂)だけが、ふるさとに

帰って行くとことで、その魂は、永遠に生き続ける、すなわち、肉体が滅びても、魂だけが残る

ため、人は、永遠に生きているのです。


ふるさとと呼びましたが、これは、宇宙であり、あの世であり、神の元に帰ると、呼び方はそれぞれ

お考えになっていただければと思います。


人が肉体を捨てても、魂が残り、ふるさとに帰る、そこでは、自由で痛みや悲しみや寂しさのない

ところで、ひとりでさみしいということはありません。


肉体を無くした魂は、思考だけは残り、記憶としても残りますが、一切の怨みや妬みといった

マイナスな思考は消えてしまいます。

だから、決して、死んでからも、恨むということが無いのです。


そこで、亡くなった人(最愛の人を亡くす)悲しみに毎日がつらい・・・とおっしやる人には、ご自分が

死んだ時には、その人とまた会える世界に行けることをお話しします。


そして、逆につらいからと、毎日泣いて過ごしていては、かえって、その最愛の人が、逆に悲しみ

そのつらさを自分のことのように、考えてしまい、自由な世界のふるさとへ帰ることを、足止めして

しまう形にもなってしまうのです。(後ろ髪を引かれる思い、とでも言えるでしょうか・・。)

そんなことになってしまうと、自由なふるさとへ帰りづらくなってしまい、なかなか帰れない状態に

なってしまい、浮遊してしまうのです。


ですから、悲しんでばかりいるのではなく、思い出に浸りながらも、またいつか、そのふるさとで

会えると信じて欲しいのです。(一緒に居られる日が来る)


思い出すことは、楽しかったことを共有する形で、笑って語り合う事が望ましいのです。(お墓で)


悲しい、つらいという思いは、肉体という器を背負っているからこその感情に、ほかなりませんが、

そのつらさを乗り越える事が、成長へとつながり、自分自身の強さになっていくのですから、

最愛の人が亡くなって悲しみに暮れるのではなく、魂はいつも寄り添っていてくれる、そんな気持

ちで、残された自分と一緒に楽しいことを共有して、毎日を楽しく前向きに過ごすことが、亡くなった

最愛の人にとっても、良いことになり、また、会える日に、語り合える時には、また、さらに楽しい

思い出として、一緒に語って欲しいと思うのです。



そんな思いを込めて…曲を作りました。         (もう一度逢いたい~私の愛)


作詞の方は、いつものポエムより、分かりやすく、簡単な詞になりましたが、心にすーっと入って

行けるような詞を心がけ、こうなりました。(笑)


最愛の人を思い出しながら、(楽しかった思い出と共に)口ずさんでいただければと思います。(笑)







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